沈思雑考Blog

ソレイユ経営法律事務所の代表である弁護士・中小企業診断士
板垣謙太郎が日々いろいろと綴ってゆく雑記ブログです。

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22)守秘義務と捜査協力

 昨日、ついに、市橋達也容疑者が逮捕された。実に960日間に及ぶ逃亡劇が幕を閉じたのである。
 急展開のきっかけとなったのは、市橋容疑者が10月24日に鼻を高くする整形手術を受けたことである。
 病院関係者も、最初は市橋容疑者とは分からなかったようだが、男性では珍しい「ほくろの除去痕」があったが為に、「もしかしたら」と思ったらしい。
 市橋容疑者にしてみれば、まさに「墓穴を掘った」格好だ。
 この手術さえ受けなければ、市橋容疑者は、まだ「別人の顔」のまま、しばらくの間、仕事を続けていたことであろう。
 何しろ、1年2ヶ月も住み込みで働いていた大阪の土木会社関係者でさえ、誰一人あやしいとも思わなかったのだから。

 さて、今回の逮捕劇は、整形手術後の「別人の顔」が公開されたことが最大のポイントである。その意味で、写真を提供した病院には拍手喝采が送られるであろう。
 一方、「別人の顔」に仕立て上げた病院に対しては、「何故、写真を提供しなかったのか」という非難めいた声も上がっているようである。
 仮に、市橋容疑者が、10月24日の整形手術を受けず、以後も整形手術を全く受けなかったとすれば、この事件は迷宮入りになっていた可能性すらあるからだ。

 しかしながら、写真を提供しなかった病院への非難は、法的には的外れである。
 御承知のとおり、弁護士や医師には守秘義務があるが、この守秘義務は、一般に想像されているよりも「極めて重い」ものである。
 おそらく、「捜査に協力するのは国民の義務なんだし、犯罪捜査という公益の方が個人の秘密なんかよりも優先するのは当たり前ではないか!」というのが一般的な意見であろう。
 だが、法の基本的スタンスは、意外かも知れないが、「守秘義務>捜査協力」なのである。

 弁護士や医師の守秘義務は、刑法134条に規定され、違反すれば刑事罰が科されるほどの厳格な内容である。私だって、守秘義務の対象になる事項は、たとえ妻であろうと決して話すことはない。
 もちろん、例外のない原則はないので、守秘義務にも例外はあり、「正当な理由」がある場合には守秘義務が解かれ、依頼者や患者の秘密を漏らしても刑事罰は科されない。「正当な理由」に該当するか否かは、最終的には司法判断である。
 そうすると、「犯罪捜査に協力することは、当然に『正当な理由』なんだから、何ら問題ないではないか。迷うことなく捜査協力すべきである。」と思われるだろうが、話はそう単純ではない。

 守秘義務は、あくまでも「秘密を漏らしてはならない」義務であり、守秘義務が解かれるということは、「秘密を漏らしてもいい」という状態になるだけであって、「秘密を漏らさなければならない」義務まで発生するわけではないのだ。
 この点、弁護士や医師には、「押収拒絶権」や「証言拒絶権」という権利まで保障されている。
 刑事訴訟法105条では、「医師・弁護士などは、保管・所持する物で他人の秘密に関するものについては押収を拒絶できる。」とされ、同法149条では、「医師・弁護士などは、他人の秘密に関するものについては、証言を拒むことができる。」とされているのだ。
 つまり、最も公益性が高いと思われる刑事事件においてすら、押収や証言を拒絶できるということは、「犯罪捜査に協力しなくても何ら違法ではない。守秘義務は最後まで貫いて結構である。」ということなのである。

 一般的には、押収拒絶権や証言拒絶権までもが法によって保障されている以上、少なくとも「令状もないのに自発的に秘密を漏らす」のは厳に慎むべきであると考えられている。
 仮に、刑事罰までは科されない場合であっても、依頼者や患者の権利を侵害することがあれば、民事上の損害賠償請求が成立する可能性は否定できないからだ。
 分かりにくいかも知れないが、刑事罰が科されない「正当な理由」があったとしても、民事上の不法行為性が完全に消滅するわけではないのだ。刑事と民事では、その果たす目的が異なる以上、判断基準も自ずと異なるのである。
 それに、その者が犯人ですらなかった場合、軽率な守秘義務違反の行為は専門職としての職業生命にも関わる深刻な事態となろう。
  となると、守秘義務が課されている専門職の基本的スタンスとしては、迷った場合には、守秘義務を貫徹するのが最も「リスクの低い」対応ということになる。

 写真を公開した医師は、守秘義務が解かれていると判断して捜査協力を優先したのであるが、それはそれで一つの適切な判断であった。この決断がなければ、市橋容疑者を逮捕することは出来なかったのだし、将来の膨大な捜査費用(血税)をカットしたという意味でも国益に貢献したであろう。
 だが、写真を公開しなかった医師も、厳格に守秘義務を貫徹したというだけのことであり、専門職としては至極適切な判断だったと言えるのである。