沈思雑考Blog

ソレイユ経営法律事務所の代表である弁護士・中小企業診断士
板垣謙太郎が日々いろいろと綴ってゆく雑記ブログです。

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50)「しつけ」という名の虐待

 先月末、東京都江戸川区の小学1年生虐待死事件の公判が開催され、マスコミでも報道された。
 被害少年は、朦朧としながら「ごめんなさい…」と見当違いの方向を向いて謝り、そのまま意識を失ったという。
 結果的に、これが最期の言葉となってしまったそうだ。
 涙がこみ上げてくるほどの痛ましい事件である。

 最近、児童虐待事件が頻発しているが、親は必ず「しつけのつもりだった」と弁解する。
 本件でも、被告人は「しつけ」だったことを強調したらしい。

 だが、手を出した時点で、もうそれは「しつけ」という名の虐待に他ならない、ということを親は肝に銘じるべきである。
 法律上も、「児童虐待の防止等に関する法律」では、「虐待」を次のように定義している。

(1)身体的虐待
    児童の身体に外傷が生じる(おそれのある)暴行を加えること。
(2)性的虐待
    児童に猥褻行為をすること、児童を性的対象にさせたり、見せること。
(3)心理的虐待
    児童に著しい心理的外傷を与える言動を行うこと。
(4)ネグレクト(育児放棄)
    児童の心身の正常な発達を妨げるような著しい減食、長時間の放置、その他保護者としての監護を著しく怠ること。

 要は、お尻をペンペンと叩く程度(外傷が生じない)がギリギリセーフという感じで、それを超える暴力は、どのような弁解をしようとも、法的には全て「虐待」なのである。

 ところが、日本では、「体罰」は「しつけ」の一環だと言われ続けてきた歴史があり、今でも、体罰を容認する声が多い。残念ながら……。
 このあたり、日本では、世界の流れに反して、未だに「死刑容認論」が根強いのとよく似た様相であり、日本人の心に「勧善懲悪」の思想が染みついてしまっているのかも知れない。

 しかしながら、誰が何と言おうと、「体罰」は「しつけ」ではない。
 しつけと体罰は、本質的に相容れないものだからだ。

 私が思うに、しつけ(教育)とは「自律支援」行為であり、体罰(虐待)とは「他律支配」行為である。
 つまり、しつけは、「子を中心」とした「支援活動」であるが、体罰は、「親を中心」とした「支配活動」だ、と私は思っている。

 ここで、自律とは、「他からの支配・制約などを受けずに、自分自身で立てた規範に従って行動すること」であり、自立よりも一歩前進した状態である。
 他律は自律の反対であり、「自らの意志によらず、他からの命令、強制によって行動すること」である。

 自律するためには、自信(自己肯定感)に加えて、他愛(利他)の心も必要であり、自立にとどまらず、自律した社会人に成長してくれることが、教育の最終目標地点であろう。

 親への依存関係から脱して、社会で適応できる力を身につけ、自立そして自律できる人間へと成長していく過程を、愛情を以て「支援(サポート)」する、これこそが「しつけ」(教育)のはずだ。

 結局、親の役目というのは、子が自由に選択できるだけの「環境」を整えてあげることに尽きると思っている。
 親という漢字が、「木」の上に「立」って、大局的見地(高い所)から子を「見」守る、と分解できるとおり、親は子に干渉し過ぎず、子を信頼して見守り続けるという姿勢こそが何よりも大切なのではないか。

 また、こんな話も聞いたことがある。
 しつけというのは、「しつけ糸」のごとく、なんだそうだ。

 しつけ糸は、縫い目や衣服の形を正しく整えるために仮に「ざっと」縫い付けておくものだが、しつけも、大雑把なレール(環境)だけ親が用意して、後は、子が選択できるような「遊び」(余裕)を持たせてあげるべきなのだ。
 とにかく、細か~いことまで、いちいち親が干渉すべきではない。
 それは、しつけではなく、単なる「押しつけ」である。

 一方、体罰は、しつけとは真逆の行為であり、その本質は、恐怖による「支配」である。
 独裁国家の「恐怖政治」を連想すれば、このことが如何に愚かなことであるかは明白である。

 体罰を容認する人達は、「言って分からないんだから、体で覚えさせる必要があるんだよ。あくまでも子のためなんだ。殴ってる方も辛いんだ。いつか、きっと分かってくれる日が来るはずだ。」などと自信たっぷりに言うかも知れない。
 だが、体罰は、親が、言葉や態度による「説得」を放棄している姿に他ならず、自ら「私は子を説得する能力がありません」と自白しているに等しい愚行だ。

 体罰を与えることで、決して「分からない」状態が解消されるわけではない。
 子が記憶するのは、「こういうことをすると罰を受ける」という事実だけであり、そのことが「なぜ?」社会的に許されない行為なのかを十分理解するには至らないで終わってしまうのだ。

 ましてや、体罰の最中に、いくら正論を並べ立てても、子は聞いているフリこそすれど、内心では「早くこの時間が過ぎ去って欲しい」としか思っていないはずだ。
 
 体罰を受ければ、子は一時的かつ表面的には、良い子になるかも知れない。
 だが、それは、理性によって善悪が「分かった」からではなく、打算で「体罰を受けないで済む要領」を学習したに過ぎない。
 結果、子は、善悪についての抽象的な教訓を一切得ることすらない。そう、体罰は、何一つ「子のため」になんかなっていないのだ。

 結局、体罰によって実現するのは、親子の上下関係(支配関係)が維持されるということだけだ。しかも、ごくごく表面的かつ一時的にのみ……。

 このあたりは、刑罰の存在によって国家の秩序が維持されるという構造と良く似ている。
 刑務所に何度も何度も行ってしまう「刑務所リピーター」が多く存在するが、このことは、刑罰による「教育的効果」が非常に乏しいことを如実に証明しているだろう。

 彼らの心の中に、「自発的」な更生意欲が強く芽生えない限り、刑罰という外圧によって人を更生させることは出来ない。
 そして、自発的な更生意欲というのは、「もう2度と家族を辛い目に遭わしてはいけない」とか、「愛する人と一緒にずっと暮らしていきたい」といった強い感情から湧き出てくるのであって、決して、刑罰の辛さゆえに更生意欲が芽生えるわけではない、ということだ。

 さらに、体罰というものは、刑罰と同様、必然的に「エスカレート」していく宿命にある。
 前回と同じ体罰では効果がないと判断され、回を追うごとに、どんどんエスカレートしていき、終いに、取り返しのつかない悲劇を招いてしまうのだ。

 体罰は、親からすれば、とっても「手軽」な手段である。頭を全く使わなくていいし、その場はすぐに大人しくなるという「即効性」もあるからだ。
 だが、麻薬や覚せい剤と一緒で、親も暴行をふるうことに対する抵抗感が鈍麻していき、必然的に、どこまでもエスカレートしていくのだ。

 強調すべきは、親が子に体罰を与えるとき、多くの親が子に対する「怒り」の感情を抱いているという点だ。
 怒りという感情を抱いている時点で、既に「しつけ」ではない。
 怒りをぶつけるということは、親の感情の「はけ口」として体罰を利用しているだけのことだ。

 例えば、「親の顔にドロを塗りやがって!」とか「何だ、その反抗的態度は!」という怒り方は、もはや、子が「やったこと」自体に対する怒りですらない。
 子がやったことではなく、親を「不快にさせた」こと自体に対して「許せない!」と言って感情的に子を攻撃しているに過ぎないのだ。

 そこでは、「子のため」という大義名分さえ完全に吹っ飛んでしまっている。
 ただ単に、親の「威信」を示すだけのために体罰が利用されているというのが実態である。そう、お気づきだと思うが、体罰によって、親が子に「分からそう」としていることは、紛れもなく「親は怒ったら怖いんだぞ」ということだけなのだ。
 
 こんなものが、社会における子の「自律」をサポートすべき「しつけ」であろうはずがない。

 子だってバカではない。「何だ結局、親は自分のことが可愛いだけなのか。」などと親を心の底から「蔑視」してしまうに違いない。

 結局、怒りに任せた体罰では、「親を不快にさせたら体罰を受ける」というロジックしか子は学習せず、親の機嫌だけを窺って生活する萎縮した子が誕生するだけだ。

 私は、幸い、親から体罰を受けたことはない。
 ただ、小・中・高と10年間の寮生活を経験したので、その間には、理不尽な先輩からの体罰は何度か受けた。だが、体罰が自分にとってプラスになったとは決して思えない。
 記憶として残ったのは、そのような先輩達のバカさ加減だけだ。
 まあ、強いて言えば、反面教師としては役立ったということか。

 親が、いくら「愛情を以て体罰を実践している」などと豪語したところで、体罰を通じて親の愛情が子に伝わるなどと思い込んでいるのは、親の身勝手な一方的解釈である。
 と言うか、体罰で親の愛を子に伝えられるほどの技量が親にあるならば、その何倍もの大切なメッセージを「言葉と態度によって」子に伝えることは容易いはずだ。

 体罰は、「いざとなったら暴力はOKなんだ」という誤ったメッセージを子に伝えるだけの効果しかないのだ。

 私が弁護士になりたての頃、かなりの件数の少年事件を担当した。
 その中で、私が確信したのは、家庭における「愛情不足」が非行少年を生むということである。

 有名な「マズローの欲求5段階説」というのがある。
 人間は、低次の欲求が十分に充たされないと、より高次の欲求自体が涌いてこないのだ。
 他愛の心を持った自律した人間に育つには、まずは、親から沢山の愛情を受け続け、「自分は家族に愛されている。自分は家族に必要な存在だ。」という自己肯定感をシッカリ育む必要がある。
 愛情溢れる家庭に育った子は、例外なく、友達にも優しく出来るのだ。

 細かい礼儀作法を教えるよりも、とことん愛情を注ぎ続けることに尽きる。
 そうすれば、子は親を好きになる。親を好きになれば、親が悲しむことは絶対にしない、親が喜ぶことはドンドンしたい、と「自発的」に思うようになる。
 これこそが「自律」への第一歩だ。

 もちろん、溺愛は論外である。溺愛は、親の都合による一方的表現に過ぎず、結局、「子の自律」という観点が完全に抜け落ちているからだ。

 それにしても、未だに「体罰容認論」が根強いのは何故なんだろうか。
 理由はよく分からないが、とにもかくにも、国民全体が、体罰というのは「しつけ」という名の虐待である、という感覚を深く深く共有していかない限り、児童虐待を伝える悲惨なニュースが聞かれなくなる日は、当分訪れないんだろうなあ……。