沈思雑考Blog

ソレイユ経営法律事務所の代表である弁護士・中小企業診断士
板垣謙太郎が日々いろいろと綴ってゆく雑記ブログです。

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154)必要性と許容性

今月15日、有識者による政府の「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」は、集団的自衛権の行使を禁じる現行の憲法解釈を改め、その行使を認めるよう求める報告書を安倍首相に提出した。
これを受けて、安倍首相は、同日中に会見を開き、国際情勢の変化や日本周辺の「脅威」拡大を理由に、集団的自衛権の行使を認める憲法解釈の変更が「必要」だと強調した。

まあ、個人的には、解釈変更の「必要性」すら無いと考えるが、法律家としては、現行憲法の解釈として、そのような解釈自体が「許容されない」ものだと断言できる。

法制度の是非や法解釈に際して、われわれ法律家は、必ず「必要性」と「許容性」を慎重に吟味する。

必要性というのは、そのような法制度を構築すべき、あるいは、そのように解釈すべき「社会的事情が存在する」ということであり、安倍主張が強調する点でもある。

許容性というのは、そのような法制度を構築しても、あるいは、そのように解釈しても「現行の法理に抵触しない」ということである。

今まさに、我が国の法理の頂点に位置し、全ての法体系の指針となる憲法の解釈を変えようというのであるから、その「許容性」の吟味は慎重にも慎重を重ねるべきこととなる。

では、まずは、憲法9条をジックリと読んでみよう。

憲法9条
第1項
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
第2項
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

集団的自衛権の問題を論ずるに際して、ポイントになる言葉は、第1項の「国際紛争を解決する手段」と第2項の「前項の目的」及び「戦力」の3つである。

★「国際紛争を解決する手段としては」とは?

ここでいう「国際紛争を解決する手段」とは、一般的には「国家の政策実現の手段」と同義と解されており、憲法9条第1項は、侵略戦争を放棄したに過ぎず、自衛戦争までは放棄していないものと解されている。
従って、この第1項だけで考察すると、我が国は、「自衛権自体は保有している」という結論になる。これは、最高裁判決も認めるところ。

なお、国連の決議に基づく国連軍・多国籍軍による制裁措置の発動などのように、集団安全保障における武力行使(戦争)に我が国が関与できるかということも重大な論点であるが、上記のごとく解すれば、少なくとも第1項だけに基づく限り、それもOKという結論になりそうである。

★「前項の目的を達するため」に「戦力を保持しない」とは?

第1項が「侵略戦争のみを放棄」しているので、「自衛戦争や制裁措置発動のための戦力は保持できる」という主張がある。
しかし、このような解釈は、文理上も無理があり、到底採用できないものだ。

そもそも、そのように解釈するならば、第2項は全く不要な規定となる。
我が国は、「侵略戦争はしない!」と第1項で宣言しておけば事足りるからである。

第2項を「わざわざ」規定したのは、「万が一にも侵略戦争は二度としないので、そのために、侵略戦争を遂行できる戦力自体を我々は持たないことにする!」と宣言したからに他ならないのだ。
また、日本国憲法が軍隊の存在を許容しているならば、軍隊に関する条項が憲法にも存在しなければならないが、そのような条項が一切ないことは周知のとおり。

つまり、日本国憲法9条は、第1項で「侵略戦争を放棄」し、第2項で「自衛戦争を含むあらゆる戦争を遂行できる戦力の保持自体も放棄」したことになるのだ。

ということで、現在の自衛隊は「戦力」であってはいけないということになり、ここから、政府解釈の「迷走」がスタートする。

まず、1946年の憲法制定時~1950年創設の警察予備隊が廃止される頃までは、戦力とは「警察力を超えるもの」とされていた。だからこそ、警察の「予備」なのだ。

しかし、1952年に警察予備隊が廃止され、保安隊・警備隊が創設されると、明らかに警察力を超える実力を有してきたため、政府は、戦力とは「近代戦争遂行に役立つ程度の装備、編成を備えるもの」と訂正した。

その後、1954年に今の自衛隊が設立されると、自衛隊が近代戦争を遂行できる実力を有していることが明らかとなり、政府は、我が国が自衛権を有する以上、「自衛のために必要な最小限度の実力」は戦力にはあたらないとの見解を表明し、以来、今日まで続く政府の一貫した解釈となっている。

まあ、正直、訳が分からないといった感じだろう。

この見解では、自衛隊が、実力が相当に劣る軍隊しか有しない国をコテンパンに壊滅させるだけの実力がありながらも、それを「戦力」とは呼ばないワケであり、もはや、日本語としても成立しない解釈だよねえ。

とは言え、政府は、長年にわたってこの解釈を維持し続けてきたのであり、今般、「自衛のために必要な最小限度の実力」を有する自衛隊に、「集団的自衛」の任務も与えようというワケなのだ。

ただ、ここでの「自衛」とは、あくまでも「自国の防衛」のためである。

集団的自衛権とは、「他の国が武力攻撃を受けた場合に、直接に攻撃を受けていない第三国が協力して共同で防衛を行う国際法上の権利」とされる。

もしも、我が国が集団的自衛権を行使すれば、我が国に対する反撃が開始される。
自衛隊は、「我が国を防衛するために必要な最小限度の実力」しか有しないワケだから、我が国の防衛の一方で、集団的自衛権を行使して、同盟国を援護するということなど理論的に出来ないはずだ。

このことは、国連の決議に基づく国連軍・多国籍軍による制裁措置の発動などのように、集団安全保障における武力行使(戦争)の場合だって同じだ。

自衛隊が現に「自衛のために必要な最小限度の実力」しか有しないか否かはともかくとして、自衛隊が集団的自衛権を行使したり、集団安全保障における武力行使に参加したりすること自体が、自衛隊が「自衛のために必要な最小限度の実力」を超える「戦力」を有していることの証明となってしまうはずなのだ。

マスコミレベルでは、上記のような論証をする人を見かけないが、憲法の解釈論としては、第2項の「戦力の不保持」こそが要なのであって、だからこそ、政府は一貫して「集団的自衛権は保有するけど行使できない」と言い続けてきたワケだ。
自衛隊は、我が国を防衛するだけで能力的に手一杯という建前なんだからね。

まあ、以上が「許容性」の議論だけど、「必要性」だって怪しいもんだ。

個別的自衛権にしろ、集団的自衛権にしろ、国際法上は、「侵害を排除するためには一定の実力の行使以外に他に選択する手段がない」という「必要性」と「自衛のためにとられた実力行使が、加えられた侵害を排除するために必要な限度で行使され、侵害行為と釣り合っている」という「均衡性」が行使要件とされる。

集団的自衛権行使において、日本が想定している同盟国は、もちろん米国ということになるのだが、世界一の戦力を有する米国が日本に援護を求める事態など、そもそも想定され得ないはずだ。
現行の日米安保条約だって、日本は基地を提供し、米国は日本を援護するという内容なのであって、日米両国の議会は、日本に対する攻撃が起きた場合のみに共同で対処する条約の批准を承認したのである。

世界一の戦力を有する米国は、米国の自衛を他国に手伝ってもらおうなどとは微塵も考えていない国である。

むしろ、米国が期待することは、米国中心の集団安全保障を手伝って欲しいということ。
つまり、日本が、集団安全保障において、世界の平和を害する国に対する制裁措置としての武力行使や戦争に参加するということだ。

万が一、集団的自衛権が「自衛のために必要な最小限度」の武力行使であるとされてしまうならば、集団安全保障への参加も許容されてしまいかねない。

そうなれば、憲法9条は、全く意味のない規定と化す。

現在、国際法においては、どんな国でも「侵略戦争はダメ」とされている。

即ち、どんな憲法を有しているにせよ、国際法上、武力行使が許容されているのは、

(1)個別的自衛権の行使
(2)集団的自衛権の行使
(3)集団安全保障への参加

の3つの場合だけである。

今回、安倍首相は集団的自衛権を許容しようというのだが、その先には、集団安全保障への参加も視野に入れているはずだ。

集団安全保障への参加もOKとなれば、憲法9条は、文字どおり「死ぬ」ことになる。

歴史的反省に立ち、万が一にも侵略戦争を二度と起こさないという固い決意のもと、戦争を遂行できる「戦力」を一切保持しないと宣言したのが日本国憲法である。

常識的に考えれば、現在の自衛隊が「戦力」に該当しないということ自体が詭弁であることは、誰の目にも明らかである。

だからと言って、憲法9条をどんどん空文化し、ついには「死」に至らしめる必要はない。

外交上の必要性があるというならば、正々堂々と憲法改正の国民的議論を巻き起こし、自衛隊の存在を容認した上で、憲法自身に自衛隊に関する規律を盛り込むべきだ。

私の親族や知人の中にも、現役の自衛隊員がいる。

彼らは、日本の自衛のために献身する覚悟はあるだろうが、外国のために命を捧げるつもりで入隊などしていないはずだ。

最も注意すべきは、集団的自衛権は「権利」だから、イヤなら「放棄」することも自由だけど、集団安全保障は「義務」だということ。

日本が、集団安全保障での武力行使にも参加できる「普通の国」になってしまったら、自衛隊は、米国中心の「世界の警察」としての役割まで担うこととなるのだ。

そうなると、自衛隊の組織は「志願兵」だけでは成り立たなくなる可能性がある。

ということは、日本でも「徴兵制」復活という話が現実味を帯びてくる。

今回の解釈改憲に賛成する人達も、あらゆるイマジネーションを働かせて欲しいものだ。

私は、自衛隊員が、米国と第三国との戦争で戦死したなどというニュースを聞きたくはない。