沈思雑考Blog

ソレイユ経営法律事務所の代表である弁護士・中小企業診断士
板垣謙太郎が日々いろいろと綴ってゆく雑記ブログです。

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107)疑わしきは被告人の利益に

 今月16日、東京地裁は、乗用車を暴走させて男児2人を死なせた事案で、
検察が求めていた危険運転致死傷罪(求刑=懲役15年)を適用せず、自動車
運転過失致死傷罪を適用して、被告人に懲役7年を言い渡した。

 マスコミは、この結論に対して「おかしい!!」の大合唱である。

 もちろん、被害者遺族は、検察に控訴を求めるようだ。
 被害者遺族のお気持ちは、同じ子を持つ親として、痛いほどよく分かる。
 だから、被害感情自体については、当然のこととして、云々するつもりは毛
頭ない。

 だが、マスコミは、裁判ネタを扱う以上は、法の理念や原則を熟知した上で
適正に論評すべきではあるまいか。

 刑事裁判の大原則は、言うまでもなく「疑わしきは被告人の利益に」であ
る。

 最近は、科学技術の発展によって冤罪が明らかになる事例が増えつつある。
 その影響もあってか、マスコミも、かろうじて「疑わしきは罰せず」という
観点からは適正に論評できるようになってきた感がある。

 だが、この「疑わしきは被告人の利益に」という大原則は、有罪か無罪かと
いった「犯人」かどうかが争点となっている場合だけでなく、あらゆる「事実
認定」や「法的評価」をめぐる論点においても当然に妥当するものだ。

 つまり、危険運転致死傷罪の成立に必要な「事実」や「評価」について、何
らかの「合理的な疑い」が生じるのであれば、より軽い自動車運転過失致死傷
罪を適用するしかないのである。

 どうも、マスコミは、「ひょっとして、この人は犯人でないかも?」といっ
た局面ではチョットだけ慎重になるのだが、一旦、犯人だということが間違い
ないとなれば、どこまでも「厳罰」を求めることにヒートアップするようだ。

 私を含めて、刑事記録を見てもいない者が判決の当否を論ずる資格はなかろ
うが、東京地裁が、「疑わしきは被告人の利益に」の大原則を厳格に適用し
て、危険運転致死傷罪の適用を「合理的に」否定したのであれば、それは至極
「真っ当」なことだったはずである。

 危険運転致死傷罪というのは、いわゆる「交通事故」(過失犯)のカテゴリ
ーを逸脱した「故意」による犯罪類型である。
 刑法の条文上も、自動車運転過失致死傷罪が「第28章 過失傷害の罪」の
中に規定されているのに対し、危険運転致死傷罪は「第27章 傷害の罪」の
中に規定されている。

 要するに、単なる交通事故とは全く異質の「凶悪犯罪」なのだ。

 危険運転致死傷罪の類型は、主として下記の5つであり、いずれも「ムチャ
クチャ」という表現が妥当する極めて悪質なものだ。

1)アルコールや薬物を服用した正常な運転が困難な状態での運転。
2)制御困難な高速度での運転。
3)運転技能を有しないままでの運転。
4)他の人や車を妨害する目的での高速度運転。
5)信号を敢えて無視した高速度運転。

 今回のケースは、検察いわく「高速度運転中に蛇行しようと右に急ハンドル
を切り、制御不能に陥らせた。」というもので、上記2)の類型に該当するか
否かが問われたものだった。

 東京地裁は、制御困難な高速度とまでは言えないとして、あくまでも「過失
犯」だと認定したワケである。

 う~む。
 難しい判断だったろうが、「疑わしきは被告人の利益に」という大原則から
すると、常識的な判断だったような気がしてならない。
 もちろん、刑事記録を見てもいない者が判決の当否を論ずる資格はなかろう
ということは重々承知の上でのことだが。

 常々感じることだが、日本人は、市民革命を経験したことがないから、国家
権力の暴走から国民の人権を守るという感覚に乏しい。

 前にも述べたが、憲法や刑法といった公法は、国家権力の暴走から国民の人
権を守るために存在するのだ。

 先日、お亡くなりになった某政治評論家が、繰り返し述べていた発言に次の
ようなものがある。

「死刑執行を拒否する者は法務大臣になるな!法律には、判決確定から6ヶ月
以内に死刑を執行しろとチャンと書いてある!死刑執行をしない法務大臣は、
自ら法律違反を犯している!恥を知れ!」

 要は、判決確定から6ヶ月経過した状態そのものが「違法」というワケだ。
 なるほど、刑事訴訟法475条には次のような規定がある。

刑事訴訟法475条
1項=死刑の執行は、法務大臣の命令による。
2項=前項の命令は、判決確定の日から6箇月以内にこれをしなければならな
い。(但し、再審請求の場合など例外あり)

 そっか!
 やっぱり、某政治評論家の言っていたことは正しかったんだ!

 これが、一般の感覚に違いない。
 そして、どの番組においても、この某政治評論家の発言に異を唱えた者を見
たことがない。

 だが、こういった感覚は、刑事訴訟法が「国家権力の暴走から国民の人権を
守るために存在する」ことを知らないことに起因する。

 この規定の本来の趣旨はこうだ。

1項=死刑執行は国家権力による最大の人権侵害であるから、法務大臣以外の
者が死刑執行を命令してはならないという国家権力に対する「制限」規定。

2項=いつまでも死刑ということを考えながら拘禁されていること自体が「残
酷」なので、死刑を執行するのであれば、早期(6ヶ月以内)にしてあげなさ
いという死刑囚(国民)に対する「温情」規定。

 そう。
 つまりは、死刑執行をしないまま6ヶ月が経過してしまったら、死刑を執行
しないこと自体が「ダメ」なのではなく、その後に死刑を執行すること自体が
「ダメ」という規定なのだ。

 もちろん、そんなことでは多大な不都合が生じるので、刑事訴訟法475条
は、訓示規定といって「努力目標」を定めたに過ぎない、というのが政府見解
であり裁判所の判例でもあるのだが…。

 どうだろう。
 一般の感覚とは「真逆」ではなかろうか。

 だが、これが立憲主義の「そもそも」の理念なのである。

 御参考までに、昭和23年6月28日の第2回国会「司法委員会」第49号
(刑事訴訟法改正)の議事録を引用しておく。

(引用はじめ)

 四百七十五條は現行法の五百三十八條に相当する規定でございまして、死刑
の執行に関する規定であります。
 その第二項の規定は全く新らしい規定でございまして、即ち法務総裁が死刑
執行の命令をするのは、判決確定の日から六ヶ月以内にこれをしなければなら
ない。但し、上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しく
は申出がなされまして、その手続が終了するまでの期間及び共同被告人であつ
た者に対する判決が確定するまでの期間は、只今申上げました六ヶ月の期間に
これを算入しないということにいたしたのであります。
 現在におきましては、死刑の判決が確定いたしましてから相当な日数を経過
いたして後に、初めて死刑執行の命令が出ておるのでありまするが、すでに死
刑の判決を受けた者に対して、長い期間その執行をいたしませんで、いつまで
も眼の前に死刑ということを考えながら拘禁されておるということは、如何に
も残酷でありまして、憲法が残酷な刑罰を禁止しておる趣旨にも反すると考え
まして、死刑の判決が議定した後は、その確定の日から六ヶ月以内に法務総裁
は、その執行の命令をしなければならない、というふうに規定いたしたわけで
ございます。勿論但書にございまするように、再審とか非常上告とか、恩赦と
いうようなことについては、十分な考慮が拂われるわけでございます。

(引用おわり)

 う~む。
 やっぱり、学校教育においては、古代史なんかを丁寧に教えるより、近現代
史や思想史をタップリ教えていくべきなんだろうなあ……。